「コンヴィヴィアリティのための道具」
イヴァン・イリイチ(Ivan Illich 1926-2002)の「コンヴィヴィアリティのための道具」(1973)は、1970年代当時の産業主義を批判した重要な論考だ。私自身は、大量生産を行ってきた先進国の次の世界観、途上国の今後の世界観、それらとオープンソースハードウェア/パーソナルファブリケーションの可能性を結ぶ論考として重要性を感じている。論考が非常に難解であることから理解が間違っている可能性は残るものの、印象に残った部分をまとめてみよう。
※「コンヴィヴィアリティのための道具」の要約はこちら(http://www.syugo.com/3rd/germinal/review/0042.html)にあります。このエントリを書く上でも参考にさせて頂きました。
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コンヴィヴィアリティとは
少し長いが、まずはコンヴィヴィアルという概念について。
人々は物を手に入れる必要があるだけではない。彼らは何よりも、暮らしを可能にしてくれる物を作り出す自由、それに自分の好みにしたがって形を与える自由、他人をかまったりせわしたりするのにそれを用いる自由を必要とするのだ。富める国々の囚人はしばしば、彼らの家族よりも多くの品物やサービスが利用できるが、品物がどのように作られるかということに発言権をもたないし、その品物をどうするかということも決められない。彼らの刑罰は、私のいわゆる自立共生(コンヴィヴィアリティ)を剥奪されていることに存する。彼らは単なる消費者の地位に降格されているのだ。
産業主義的な生産性の正反対を明示するのに、私は自立共生(コンヴィヴィアリティ)という用語を選ぶ。私はその言葉に、各人のあいだの自立的で創造的な交わりと、各人の環境との同様の交わりを意味させ、またこの言葉に、他人と人工的環境によって強いられた需要への各人の条件反射づけられた反応とは対照的な意味をもたせようと思う。私は自立共生とは、人間的な相互依存のうちに実現された個的自由であり、またそのようなものとして固有の倫理的価値をなすものであると考える。私の信じるところでは、いかなる社会においても、自立共生(コンヴィヴィアリティ)が一定の水準以下に落ち込むにつれて、産業主義的生産性はどんなに増大しても、自身が社会成員間に生みだす欲求を有効にみたすことができなくなる。
コンヴィヴィアリティとは、人と人、あるいは人と環境と交わる際の「相互依存のうちに実現された個的自由」を指している。そして、論考のタイトルにある道具とは、いわゆる手に取れるハンマーのようなものだけでなく、機械や生産設備、義務教育等、「合理的に考案された工夫すべて」を指している。ここでの道具は、広義の「デザイン」という言葉に近い。そしてこの論考では、コンヴィヴィアルな社会の実現に向け、道具の効率性(=合理的に考案された工夫)に対して課せられるべき限界を明らにし、人々が創造的に生きることが可能な道具のあり方の探索が行われいる。
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産業化の弊害
人々は生まれながらにして、治療したり、慰めたり、移動したり、学んだり、自分の家を建てたり、死者を葬ったりする能力をもっている。この能力のおのおのが、それぞれひとつの必要(ニーズ)をみたすようにできているのだ。人々が商品には最小限頼るだけで、主として自分でできることに頼るかぎり、そういう必要(ニーズ)をみたすための手段はあり余るほどある。こういう諸活動は、交換価値を与えられたことはかつてなかったけれど、使用価値をもっている。人間が自由にそういう活動をすることは、労働とはみなされない。
産業化が進むにつれて、交換価値をもつ諸活動は専門性を高め制度化され、交換価値を持つものだけが「労働」とされた。その結果、例えば医療では、医師という専門職により医療手段が独占された。さらに、医師の訓練期間が長期化することにより、医療サービスの希少性が高まり社会成員の医師への依存、という構造ができあがる(以前は、呪医、民間医が効果的な処置を行っていた)。進歩は依存の増大ではなく、自己管理能力の増大を意味するはずであるのに、医療の対象拡大と公に保証された品質への過剰信頼から、人が本来持っているはずの治療者となる能力は不能化する。さらに、自分の体にも関わらず主体性を失い、人々がその管理に関して無関心・無責任となり、全面的に医師任せの思考停止した状態、文化的医原病が発生する。
このような問題は医療に限ったことではない。冒頭のコンヴィヴィアリティに関する引用にあるとおり、「富める国々の囚人はしばしば、彼らの家族よりも多くの品物やサービスが利用できるが、品物がどのように作られるかということに発言権をもたない」、自らの必要性に従ってものをつくり、生活環境に主体的に関わるということは希薄化してしまった。生活を良くするということはどれだけよい商品を購入し所有するかということとほとんど等価で、「何を買うか」が重要な関心事なのだ。医原病のような無関心にくらべれば、現在では生産に関する消費者意識は高まっているが、生産者と消費者という構図は根強く、生活のために「ものを作る能力」が活用される場面は非常に限定的であるし、生活は「生産者」によって限界づけられている。
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誰でも生産者の時代?
とは言え、それではみんな生産者になればよいのかというと、そうではないはずだ。生産の自由が極大化した社会に関しては、「誰もが生産者になれる訳ではなく大きな格差を生む、あるいは生産してよいものに関する倫理的な問題を孕む」という話もある(「広告」2010年4月号 特集「生産する生活者」)。私自身も自分でものを作る経験はまだまだ乏しく、自分の生活に必要なものを全てを作ろうとも考えていない。誰もが生産者になる、必要なものを全て自分で作るということは理想的である一方で、理想でしかないとも言える。考えなければならないのは、現在の「生産者」任せの依存した限界的な状況を改善するということで、これは、現在の大量生産型の閉じられた生産様式だけでなく、開かれた複数の生産様式を持つことが鍵と成り得るということだ。
イリイチは、コンヴィヴィアルな社会の実現に向けた指針の1つに「科学の非神話化(=身体から外在化し権威を持った知への思考停止の回避)」を掲げている。「世界についての情報は、有機体が世界との相互交渉を通じて、有機体のなかにつくりだされるものだ」とし、自ら学ぶという行為を取り戻す必要性を説いている。
人々は自分が教えこまれたことは知っているが、自分のすることからはほとんど学ばない。
「自分でつくる」ということは自ら学ぶ機会で、出来たものにオリジナリティが無いとしても、ものの裏側の技術の理解や、創意の過程を追体験する重要なプロセスでもある。オープンソースハードウェアは個人やコミュニティがアクセス可能な技術を提供し、生活から隔離され隠蔽された技術を再び日常へと取り戻す、開かれた学びの機会である。こうした機会は先進国でも途上国でも重要な意味を持つ。先進国ではものを作るということへの無関心を改め現在の消費と生産を連続させ可能性として、途上国ではものを生みだす機会として。(もちろん、オープンソースハードウェアやパーソナルファブリケーションにはこの他にも様々な可能性が見いだせる)
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tinkering
オープンソースハードウェアのArduinoには哲学があり、その流儀のひとつにtinkeringがある。
tinkeringとは、あなたが好奇心、空想、奇想に導かれて、やり方の分からない事柄に挑戦することです。tinkeringに説明書はありません。正しいやり方や間違ったやり方はなく、失敗もありません。それは、物の仕組みを理解することと手を加えて作り直すことに関係しています。複数の機械、珍しい仕掛け、不揃いな物体が調和しながら機能することがtinkeringの真髄であり、その基本は遊びと調べごとを結びつけるプロセスといえます。–www.exploratorium.edu/tinkering
(「Arduinoをはじめよう」より)
tinkeringこそが自ら学ぶということに他ならない。
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Yusuke Okamura @ 4月 17, 2010
Design for Disassembly
先日、Make:japanで紹介されていたDesign for Disassemblyに関する記事はデザイン、オープンソース、サスティナビリティを考える上で示唆的だった。
これまでもプロダクト・デザイナーは、1つの製品の拡張性や製品ライフサイクルのことを当然考えてデザインをしてきている。しかし、これらの要件はどちらかというと、審美的な側面からいえば邪魔ものでコンセプトモデルでは美しかったデザインが、これらの要件を満たそうとして審美的な価値を失ってしまったり、造形としての美しさを優先させて、ユーザーにはバッテリー交換を出来ないようなデザインになってしまうこともある。
造形としての美しさとオープンな構造というのはなかなか両立しないのだろうか…。本質的には、このあたりのことを追う必要がありそうだが、最近の傾向としては、オープンな構造の方が価値として重要視され始めているように思う。これは、環境面だけの話ではなく、消費?のあり方の問題として。今日は、そんなことを考え始めるための事例をいくつかあげてみようと思う。
●Design for Dissassembly
10秒で簡単に分解できるデンタル・フロスの容器の例
「分解できるデザイン」(Design fo Disassembly: DfD)は、将来、修理や改造やリサイクルができるように分解しやすく作るというデザイン手法だ。
DfDの利点は、 分解しやすさは製造しやすく製造に関するコストを低減する。それから、素材を減らしていくことにつながるので原料のコスト面でも有利に働く。また、このような企業の考え方が広まれば、環境意識が高い層の評価が高まり、新しいマーケットを創りだすことができる、とのことだ。それから、修理可能なパーツの販売も推奨されている。もちろん、危険が伴なうものは分解できないようにする必要があるが、特に作るプロセスや製品そのものが危険を伴わないものは、半完成品で提供してもよいと思う。完成品は完成品で良いが、「自分で作る」というプロセスや時間にもっと価値を感じられるようなものもあるはずだ。
● Open Structures
こちらもMake:経由で知ったプロジェクトで、
製品の開発者や建築家に、たとえば流しや自転車などの部品を使って別の製品が作れるような、ハック可能な製品を作ってもらうための基準をまとめたものだ。このシステムの基本は4×4センチの方眼。あらゆる部品をこの規格に合わせて作ることになる。(中略)このシステムの核心は、製品を簡単に分解できて、簡単に再構築できるようにするという提案にある。
このプロジェクトがユニークなのは、「グリッド」=細胞、「パーツ」=組織(細胞のあつまり)、「コンポーネント」=心臓などの器官(組織のあつまり)、「ストラクチャー」=消化器官システムとして、階層化してデータベースを作ろうとしているところだ(該当ページへのリンク)。 すべてフラットなマテリアルではないために、用途に応じて必要なものを探し、「コンポーネント」の組み合わせでものを作ったり、「パーツ」レベルからものを作ることを可能にしている。
いわゆるメーカーの既製品でも、DfDやオープンな構造が採用されていれば、製品は単純に消費されるだけ、つまり予め規定された操作体系にしたがって操作するだけという、部分的で限定的な関与だけでなく、より能動的な製品への関わりを生み出すことができるのではないだろうか。
●look “hack-able”
こちらは、ちょっと前のAdaptive Path社のプロジェクトで、インドの農村部でのフィールドワークからモバイルデバイスがどうあるべきか、というデザインコンセプトを導いたものだ。インドに限らず、アジアの途上国では携帯電話の(合法なものも非合法なものも)改造、修理の強烈な文化があるという[1]。この市場では、”hack-able”なデザインが重要で、視覚デザインのヒントをスチームパンクから採用し、カスタマイズがしやすいように見えるデザインを提案している。視覚デザインとしてこのようなデザインが効果的ななのかどうかはおいておくとして、途上国には分解可能であることや、修理可能であることは先進国とは少し異なる側面で大切な要件でありそうだ。
このようにいくつかの事例をみると、インタラクションデザイナーも画面のなかだけでなく、プロダクトデザイナーと協調し、ものとして製品ライフサイクル全体を視野にいれた、製品の扱い方をデザイン領域として捉えれば、製品とユーザーの新しい関係を構築し、新しいイノベーションに寄与する機会が増えそうだ。
[1]http://www.janchipchase.com/repaircultures
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Yusuke Okamura @ 3月 8, 2010
住宅をオープンソース化する試み
以前に、「デザインとオープンソースハードウェア」というタイトルで、オープンソースハードウェアがサスティナブルな社会に貢献するのではないか、というようなことを書きました。今回は、このエントリーに続いてもう少しこのあたりを掘り下げて、ものづくりの分散化について考えてみようと思います。
※オープンソースハードウェアの簡単な説明はこちらをどうぞ。
住宅のオープンソース
既にご存知の方も多いかも知れないが、住宅のオープンソース化の試みに、建築家の秋山東一氏による「Be-h@us」という住宅システムがある。「Be-h@use」は、日本の風土にあった「木の家の作り方」をネットワーク上で共有化し、オープンソースのような存在にしようとするプロジェクトだ。ネット上に公開された部材のマニュアルや設計支援ツールでセルフビルドすることも可能だ。
秋山氏がセルフビルドを推し進める理由は、現在の日本の住宅への問題意識から始まっている。その問題意識は単純にハードが良くないという問題ではなく、生産と消費の構造への問題意識による。
―現代の住宅の問題は、生産者と消費者とが分断している、ということにあるのではないかと考えています。本来、住宅の作り方は伝統的、地域的な「共有知」に基づいたものであったはずですが、それを支えていた伝統的地域共同体の崩壊とともに、ハウスメーカーや工務店、設計者というような、生産組織の経済行為としての住宅の作り方に取り変わってしまったのです。
「Be-h@use」では、サスティナビリティや環境問題はどのように捉えられているのだろうか?
―Be-h@us のシステムは、その高性能をもって環境に負荷をかけない住宅を作りだします。その徹底ぶりは、その住宅が遠い将来、廃棄されるゴミになる時まで配慮されて います。また、Be-h@us にオプションとして附加される機能、Be-air という「夏涼しい家」を作る換気システム、Be-solar という壁面、屋根面を集熱面とするソーラーシステムは、そこでの生活を十分エコロジカルなものにします。それも、しっかりとした Be-h@us の躯体・箱があっての仕掛けなのです。
さらに、秋山氏はこう続けている。
―自分で作った家こそ、自らの責任で維持し発展させることができます。時間の中で、家は変化していきます。また、変化させていかねばなりません。
オープンソース、サスティナブル、デザインが重なる領域で、Be-h@useが示す、可能性の一つ目は、環境負荷が低いものづくりの方法をオープンソースで共有していく、というあり方。(このあたりは、Designers Accordに通ずるところがある。)特徴的なのは、完成形のソースが提供されるのではなく、自由度を持ったシステムとして、住宅を作るための環境として、提供されているところだろう。もちろん、ある完成形のソースを公開していくということにも大きな意味があるが、準備された仕組みを活用しモジュールを組み合わせるように、新しいものを生み出せるという環境は、創造力を刺激するのに程よい制約として機能する…。恐らく、今後ものづくりが本当に分散化すれば、一定の審美性や専門的な知恵が活用された「ものを作りのための環境やシステム」が求められ、デザイナーはこんな形でユーザーが作ることを支援するということが多くなるのではないだろうか。
可能性の二つ目は、現在の消費と生産の構造を問い直すというところにある。これまで生産者に委ねられてきた生産プロセスを、個人が取り戻すということは、生産と廃棄に関する環境問題に対し、個人がより大きな自由と責任を持つということを意味している。ポジティブに捉えれば、大量生産で余って廃棄されていたようなものが減ったり、「自らの責任で維持し発展する」意識が生まれて一つ一つの物の寿命が延びることなども想像できる。あるいは、地域共同体に根づいたものづくりであれば流通時の環境負荷を低減することも可能かもしれない。一方で、大量生産型の効率の高い生産システムではないために資源を有効に使えずに無駄が多くなる可能性や、産廃の管理などが企業単位以上に分散化することで社会全体での統制が難しくなるなどの反対意見もあるだろう。
生産と消費の話や社会の仕組については、まだまだ知識が乏しく結論めいた事は言いにくいのだけれど、現在、とても大切な問題として浮上しているように思う。今は、このあたりのヒントを求めて、イヴァン・イリイチの「コンヴィヴィアリティのための道具」を読み進めているところだ…
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Yusuke Okamura @ 1月 29, 2010
デザインとオープンソースハードウェア
手前味噌な感じだが、今号の「AXIS vol.139」は「デザインとオープンソースハードウェア」というテーマを考えるのにとても良い。このあたりの記事は是非読んでみて頂きたい。“Lugano Project” 設計図を10ポンドで販売したロンドンのデザイナー の椅子は、DIYが盛んな英・米で製作意欲をかき立てるに留まらなかった。この設計図は著作権が譲渡され遠く離れたブエノスアイレスで生きる人々が収入を得る機会を与えることになったそうだ。“米国MAKE”MAKE編集長のデール・ドーティーの言葉で、
消費者は、自分自身が手にしている製品から締め出されていて、その中身に触れることもできなければ、改良することもできない。工業デザインの感覚から言えば、それは完璧な製品なのでしょうが、消費者から見たら全く閉ざされている。(中略)そうした閉じられた世界は、携帯電話も使い捨てになるのです。
アメリカでDIYを盛り上げるMAKE誌は、現在の工業製品のあり方に疑問を持ち、改良したり修理することで使い続けられるモノのあり方を模索しているようだ。一方で、MAKEの雰囲気は、暗いアンチテーゼではなく、「コモディティ化した製品を『プラットフォーム』として扱」ってしまい、その上で自分なりのものを「作る」ことや、「アイディア」を純粋に楽しもうとするオープン、カジュアルな印象が強い。この社会に対する意味とカジュアルなカルチャーがMAKEの魅力なのだろう…“Platform21=Repairing”オランダでは、「リサイクルを止めて、リペアーを始めよう」というマニフェストが宣言され、「Platform21=”Repairing”」という展覧会が開催されている。会場ではデザイナーやアーティストが、来場者が持参した壊れたものを修理しているという…(こんな役割をデザイナーが果たすのは面白い!)ハードウェアのオープンソース化が広まれば、今は故障すればすぐに新品に交換となってしまう情報家電も、もっと長く使われるようになっていくのだろうか…修理の意味は「修理することで人は製品に愛着を持つ」ということにもつながる。“Designers Accord”アメリカではじまった、デザイナーが「サスティナビリティ」について合意し、協力しあう組織「デザイナーズ・アコード」。最近のDesigners Accordのリニューアルで過去の情報が見え難く(あるいは無くなってしまった?)なってしまったが、以前は、サスティナビリティを向上させたり、環境負荷を低減させるアイディアや事例をオンラインでオープンなデータベースにしようというプロジェクトがあったと思う。データベースで、より具体的に設計図やインストラクションを共有するようになれば、サスティナビリティとオープンソースハードウェアが融合するような活動となるのではないか…D.I.Y、Repair、Opensource Hardwareとデザインは、ひとつはサスティナビリティという文脈で結びつく。このサスティナビリティは、これまで言われていた静的なサスティナブル・デザインに留まることなく、「工業生産の手段が簡単に入手できるようになり、設計を無償で共有」した個人が活躍し、社会全体のイノベーション速度を向上させるような動的なサスティナブル・デザインを生みだす、と考えられないだろうか…
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Yusuke Okamura @ 6月 5, 2009
オープンソースハードウェアとは
「オープンソースハードウェア」という、あいまいに使っている言葉が気になり少し調べてみた。Wikipediaによると、2002年の世界情報社会サミットでアナン事務総長の発表が原動力になったとある。(少ししらべてみたが、このサミットの詳細は不明)この発言は情報格差をなくそうとしていたものだったようで、そう考えると「オープンソースハードウェア」はソーシャルな文脈からうまれてきた概念と捉えて良いのだろうか…
オープンソースハードウェアという言葉にはじめて触れたは、このブログでも何度か紹介しているニール・ガーシェンフィールドの「ものづくり革命」(2005)のなかで。「ものづくり革命」のなかでは、このような形で紹介されている。
これまで長い歳月にわたって、生産手段の所有・非所有が経営者と労働者を分かつ基準になっていた。しかし、工業生産の手段が簡単に入手できるようになり、設計を無償で共有できるようになれば、ハードウェアもソフトウェアと同じ進化の道をたどる可能性は高い。
工業生産の手段を誰もがもてるというところが、「ものづくり革命」のなかでの「オープンソースハードウェア」の大切なポイント。もういちど、WikipediaにもどるとWikipediaではオープンソースハードウェアとは以下のように説明されている。
オープンソースハードウェアは、フリー/オープンソースのソフトウェアを使ったハードウェアを指す場合と、ハードウェアの概要・設計・実装などの情報をフリーなライセンスで提供することを指す場合がある。
個人的な感覚から言うと、後者を指している場合が多いように思う。(昨年10月時点だと、まだ、その定義についていろいろな議論がなされているようだ。)
オープンソースハードウェアはその後少し文脈ずらしながら、MakeやInstructableなどによりDIYのなかで大きく盛り上がりはじめている….(hackaday.com)。商業的な文脈では、BugLabやChumbyなどいくつかのベンチャーがオープンソースハードウェアの取組みをはじめているのは周知のとおりだ。(最新の事例、技術動向などについては、日経エレクトロニクス1000号、1001号に詳しい。)
今後、オープンソースハードウェアという概念が浸透するのか、浸透したとするとデザインに対してどのような影響を与えるのかは良く分からない。それでも、現時点だとGainerのようなで手軽にハードウェアをスケッチできるデバイスが登場したことで、インタラクションデザイナーにとっては初期のデザインプロセスのなかで発想を広げ、実際に体験しながらスケッチを繰り返すということができるようになりはじめている。このようなデバイスを誰もが手軽に入手しやすいというところから、様々なデザイナーやアーティストが試行錯誤し表現の幅が広がって来てもいる。
一方で、日経エレクトロニクスの記事にあるように、ハードウェアのうちの嗜好性の高い筐体や外装が、カスタマイズされるようなことになると、ハードウェアデザイナーとしては仕事が無くなるような嫌悪感を抱くかもしれない。まだ、この先はわからないけれど、様々なジャンルのデザイナーにとってよい機会となるような接点を見つけていければと思う…
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Yusuke Okamura @ 5月 22, 2009
User Generated Device その2
以前のエントリーの「誰でもメーカー -User Generated Device」Part1に続き、日経エレクトロニクスの1000号記念特集 Part2「ハードだってオープンソース -User Generated Deviceの実現技術」を読んだ。個人レベルでのハードウェア開発を可能にする最新の技術動向や事例が広範に解説されている。現在の技術動向に関する情報ソースとして有用。
それから、オープンソースハードウェアが成立条件として、ソフトウェアのオープンソース化のアナロジーから、1)無償の設計ツール、2)安価な出力装置、3)設計データの改変や再配布の許可(ライセンス体系など)が整うこととある。特集記事にあるとおり、特に2)の安価な出力装置(3Dプリンターや切削機)の登場により、オープンソースハードウェアは浸透していくのではないかと思われる。
ユーザは何をカスタマイズするのか、に関する考察では筐体、外装、インターフェイスなど嗜好性が強いところにカスタマイズニーズがありそうだと特集では解説されている。確かに、そのとおりかも知れない。こうしたもともと「コンテンツ性」が強く、比較的技術的な専門性が低い部分がカスタマイズされていきそうだ。
一方で、こうしたプラットフォームが広がって行って、筐体や外装、インターフェイスに留まらず、これまでにない機能をもった機器が創出されたり、故障したデバイスが捨てられてしまうのではなく、モジュール化によって再利用が促進され、社会全体で廃棄されるものが少なくなるような社会になったりしないだろうか…
そう考えると、前に紹介したInformal Repair Cultureのような文化は面白く、重要に思えてくる…。
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Yusuke Okamura @ 5月 11, 2009
User Generated Device
噂を聞いて楽しみにしていた日経エレクトロニクスの1000号記念の特集記事を読んだ。「誰でもメーカー -User Generated Device」という特集。User Generated Deviceとは、ユーザー参加型の開発環境から生まれた機器で、CGMなどの流れとあわせて説明がされている。その1つの変化としてOpensource Hardwareも取り上げられていた。
なんというか、全体的に商業ベースな文脈のなかで説明され過ぎているのがちょっと残念だった。ユーザー参加型として定義されているせいもあるのだろうが、なんというか、ユーザー参加型でユーザーのニーズやアイディアを吸い上げたり、企業がユーザーの作った機器を売り買いするマーケットを運営するというような流れになっており、全体的に新しい世界観のワクワク感が弱かった…。
既存の大量消費社会の枠組みを揺さぶるようなものであって欲しい。(特集記事のなかでそのような説明もあるには、あったのだけれど。)「ものづくり革命」には、そんなワクワク感があったように記憶している…
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追伸:
小林さんのブログを読んで、この時期に2号続けて網羅しようとする特集は確かにすごいなと。 特集 Part 2は、「ハードだってオープンソース ——User Generated Deviceの実現技術」。この号も購入しなくては。
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Yusuke Okamura @ 4月 16, 2009
Opensource Hardware
J.M.アッターバックの「イノベーションダイナミクス」を読み終えた。この本の中の大切な概念である、ドミナント・デザインやプロダクト・イノベーション、プロセス・イノベーションについてサマライズしてしてみようかと思ったが、どうも違うことを考えはじめてしまったので、このあたりの説明は別なところにもあるので割愛。
考え始めたのは、オープンソースハードウェア的な世界のイノベーションについて。(オープンソースハードウェアの話は、「ものづくり革命」に紹介されている。 )ユーザーが必要なモノ(ハードウェア、基板も)をユーザー自身がつくることができるような時代は来るのだろうか、来るとしたら「イノベーションダイナミクス」のプロダクトイノベーションやプロセスイノベーションはどんなことになるのか。そんなことをぼんやり考えている。
これまで、オープンソースハードウェア的な世界は、切削機や3Dプリンターが低価格化して世の中に浸透していくように考えていたが、(本当のオープンソースハードウェアはこういうものが必要になるとも思うけれど)Informal Repair Cultureのようなリサーチを読むと、ある意味すでにオープンソースハードウェアだなぁと思ってしまう(下部のリンクのPPTの写真はかなりインパクトあり)。ユーザーが直接作る、という訳ではないけれど、露店で修理ができたりカスタマイズができてしまうというのは、なんというか個人単位に近い。かなりグレーなカスタマイズが行われたりするネガティブな側面もあるが、”largely convenient, efficient, fast and cheap, reducing the total cost of ownership”、”increases the lifetime of products lowering their environmental impact”という社会全体に対する利益もありそうだ。先進国ではオープンソースハードウェアはこのようなにインフォーマルな形ではじまるというのは、想像し難いが、製品のカスタマイズや修理から浸透していくというのは、あり得なくもないように思う。
企業のイノベーション(プロダクトイノベーションやプロセスイノベーション)にはどんな影響があるだろうか。
ここはどうなるのかを予測するのは、難しいけれど、ソフトウェアで起きたこと(S・ウェバー「オープンソースの成功」を参照)から類推すると、プロダクト的なイノベーションもプロセス的なイノベーションのどちらも、ネットワーク外部性により速度や質が向上するのではないかと思う(安易な類推かもしれないけれど)。ユーザー自身が生産する、ということでプロセスイノベーションの価値はこの文化のなかでは低くなるのだろうか、あるいはプロセスイノベーションによってユーザーが生産する障壁を下げコミュニティを拡大する重要なファクターとなるのだろうか。
イノベーションがどうなるのかはまったく空想の域をでないけれど、オープンソースハードウェアは 大量消費後の世界観として、かなり魅力的な世界に見えるのだが。
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Yusuke Okamura @ 4月 6, 2009