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方法論について

ここのところ、デザインの方法論についてディスカッションする機会が何度かあった。「デザインの」と書くと、大げさなのだが、ここ最近の自分なりの考えを一度まとめてみようと思う。 – たくさんの方法? コンサルタントは、どれだけのフレームワークを持っているかが大事で、その数で勝負が決まるという話がある。一方で、経験豊富はコンサルタントは、基本となる数種類のフレームワークを使い回していて、実はフレームワークの量が重要なのではなく、その使い方、アレンジの仕方が重要なのだという議論もある。フレームワークとは、考える「型」のようなもので、確かに様々なフレームワークを持っていることは強そうではあるが、その実、人には考え方のクセのようなものがあって、それほど、コロコロとベースとなるものの見方や考える筋道を変えていくというのは、なかなか難しい側面もありそうだ。コンサルタントが使うフレームワークとデザインの方法論を、同様なものとして扱うのはやや乱暴かもしれないが、方法論を知識として多く知っているケースと、数種の方法を熟知し骨肉化しているケースでは、アウトプットのクオリティを向上させるのは後者のような気がしている。 – 長い目で方法を捉える では、これと決めた方法を数種を熟知していればいいのだろうか? これも、少し違う気がする。量とは異なる軸で、方法論が静的か動的かも重要な側面で、方法論をあまりに固定化させることで生じる問題もありそうだ。その問題の1つは、現場での創意が失われることではないだろうか。端的に言えば、作業を繰り返している印象が強くなり、中長期的には現場のモチベーションの低下に繋がる可能性もある。昔、あるプロジェクトで、「ナレッジは現場で生まれる」と仰った方がいたが、これは本当だろう。同じことを「繰り返しやらされている」のではなく、自分たちのナレッジをもとに「取り組み方、それ自体を自分たちで変られる」とした方が良いものが生まれてきそうな気がしないだろうか。このような態度は、兵法家のクラウセヴィッツが、「戦略が文字通り『モノ』であれば、時々刻々と変化する環境に対応」できなくなるとし、「モノ」としての戦略を否定した態度と通ずるものがある。重要なのは、出来上がった「方法論」ではなく、「方法」をアレンジし、編み出して行く力の方にあるようだ。 – 方法論の背景 それから、デザインに関する「方法論」と一口にいっても、方法論それぞれの意味があり、それを用いる組織や個人の背景も異なる。大きな組織であれば、バラツキを無くしクオリティを安定させることが重要なケースもあれば、人材が不足しているプロダクションなどでは効率化を推進するものが大切になるだろうし、あるいは創造性の促進が重要なケースや、様々なステークホルダーとの合意形成が重要となる、などなど、ある組織や個人がある方法を生みだし用いている理由は様々なハズだ。「方法論」に関するディスカッションを行う時に、この前提というか目的がズレている事が良くある。(私自身も過去にそのような過ちを犯した。) グローバルブランドのイメージ統一に関するプロジェクトに携わった際に、見つけた文献(もうずいぶん前の文献だが)には、日本企業はマニュアルなどのツール類を重視し、海外企業は現地担当者との話し合いやワークショップを重視するという調査結果があった。イメージ統一という課題に対し、アウトプットにルールを課し管理することを重視していくのか、あるいは、あるブランドが伝えたいことの共有や共感を重視していくのか、アプローチや方法論の違いから、その組織では何が重要視されているのかが、透けて見えることもある。他の組織の方法論について知るということは、この価値観の違いを認識するというところに最大の価値があるように思えてならない。 他の組織で行われている方法を、自分たちも真似してみることは基本的には良いことだと思うが、上に述べたような方法の意味や効用と、その組織の背景を良く理解することがその条件となりそうだ。

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CraftRobo

  最近、盛り上がりつつあるCraftRoboではじめるパーソナル・ファブリケーション。少し前まで、私自身も高価な機材でなければ本物でないと思っていたのですが、安価で入手しやすく様々なトライアルができるということで、CraftRoboはとても面白いです。 CraftRobo関連で気になるものをいくつか、まとめてみます。 – ペパクラデザイナー ペパクラデザイナーは3Dデータからペーパークラフト用の展開図を簡単に作成できるソフトウェアです。CraftRoboへの出力に対応しています。 (via @kotobuki) >>メーカーサイト – SketchChair Processingベースのイスをスケッチするためのソフトウェア。簡単なベジェ曲線の操作から切り出すパーツ図面を作ってくれます。最終的にはCNCルーターやレーザーカッターでイスのパーツを切り出しますが、その前のCraftRoboを使った紙によるプロトタイプの段階だけでも面白そうです。 source : Make: – Modular Kirigami 単純なモジュールを組み合わせて興味深いフォルムつくる試み。このPDFを利用すれば、CrraftRoboから出力することができると思います。(もっと簡単なもので、カエデやラワンなど飛ぶ種子を模したこれも面白いです。) source : Make: – Paper Circuitry IAMAS近藤さんの導電性インクと紙を使ったインタラクティブな作品。導電性のインクなどの存在を考えると今後この方向のインタラクションはとても面白くなるかもしれないですね。 (via:@t_kondo) source: Fashioning Technology

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世界観が変わるかもしれない言葉の話

今回は言語の起原から文字まで気になる洞察をいくつか紹介してみたいと思います。インタラクションとの直接の関係はないかもしれませんが、相互のやりとりという観点からはなにからしらの示唆があるものとも思います。 – ブーバ・キキ効果 これまで、言語の音と視覚的印象に関して、その関係は恣意的(任意、無作為)で文化・言語の枠を超えた法則はないとされてきた。例えば、「イヌ」という音は、イヌの視覚的な像とはなんの関係もない。これに対し、聴覚表象と視覚表象とのあいだに、非恣意的な関係があらかじめ存在していたのではないということを示唆しているのが、ブーバ・キキ効果だ。 上の2つの図のうち、どちらが「ブーバ」で、どちらが「キキ」かという問いに対して、母国語や文化に関係なく95〜98%の人は、染みのような左の図形が「ブーバ」で、ギザギザの右の図形を「キキ」だと答える。聴覚表象と視覚表象の関係はまったく恣意的な訳ではないようだ。 幻肢研究で有名な神経科学者ラマチャンドランは、ブーバ・キキ効果にみられるような、非恣意的な関係が、視覚と発声の間にもあることを著書『脳のなかの幽霊、ふたたび』のなかで指摘している。 「小さい」「少し」を意味する「teeny(ティーニー) weeny(ウィーニー)」「un(アン) peu(プ)」「diminutive(ディミニュティブ)」という言葉を言ってみてください。次は、「大きい」意味する「enourmous(イナーマス)」、「large(ラージ)」といった言葉を言ってみてください。そして唇の動きを見てください。唇は、あなたが言っているものの視覚的外形を物理的にまねています。 ラマチャンドランは、さらにもうひとつ、手の運動と口の運動にも脳内では共感覚的な翻訳(共同運動)があると言う。 ダーウィンは、人がはさみでものを切るときに、あたかも指の動きをそっくりそのまま繰り返しているかのように、あるいはまねているかのように、無意識に歯を食いしばったりゆるめたりすることに気がつきました。 視覚と聴覚の共感覚的翻訳(ブーバ・キキ効果)、聴覚と口の運動に関する翻訳(teenyなど)、手と口に関する運動から運動への翻訳(共同運動)、この3つのよって原型的な言語が創出されたという説をラマチャンドランは唱えてる。もう少し分かりやすく言うと、言葉は共感覚や共同運動といった、聴覚や発声と視覚や手の運動感覚との脳内の混線=翻訳から生まれてきたのではないか、ということである。 言葉が生まれる過程では、お互いの発話内容を理解するための規則、例えば発音された「イヌ」が実際のイヌを指し示すような規則が必要となる。手にした書籍にはこれ以上の詳細な説明が無かったため、ここからは、私の推測になるが、人が言語を持つ以前は、お互いに意志を疎通しようとして何度となく身振りや発声を繰り返しお互いに何事かを伝えようとしていた。その繰り返しの中で共有可能な規則が言葉として定着し、そうでないものは捨て去られる。何を規則として定着させ、何を捨て去るかを決定していったものこそが、人に予め備わっていた感覚を翻訳する能力であったのではないかと思う。 – ニカラグア手話 次に紹介するニカラグア手話は、上に述べたような原初的な言語から、言語が洗練された体系を持つに到った過程を示す事例である。 ニカラグア手話は、1970年代末から80年代にかけてニカラグア共和国の学校で聴覚障害児によって創出された自然発生的な手話で、世界で最も新しく誕生した言語とされ、 また、歴史上はじめて学者たちによって誕生の瞬間が目撃された言語であるとされる、極めて特殊、且つ重要な事例と言われている。 ニカラグアではサンディニスタ革命以前、聴覚障害児は社会から疎外され、身内にしか通じない「自家製」のサイン体系を使って友人や家族とコミュニケーションを行うだけだった。サンディニスタ革命が起こり、聴覚障害児の特別教育施設が設けられると、首都マナグアの2つの学校に数百人の聴覚障害児が顔をあわせるようになった。新設された特別教育施設では、スペイン語を用いた指文字と読唇術による教育手法を採用していたが、 単語という概念を持たなかった彼らのコミュニケーション生成に全く影響を与えず、スペイン語教育はあまり成果を収めなかった。この状況下で、子供達はそれぞれの「自家製」のサインを組み合わせながら、「ピジン語(混成語)」のような共通のサインを発達させていった。教育にあたっていた大人達には、子供達がどのように意志を疎通しあっているのか、全く分からなかったそうだ。 それまで、散逸していたものが集まり、コミュニティとなった時に思いがけない発展が起きる。しかも、10年という短い期間で。これは驚嘆すべき事実ではないだろうか。 an original group of home signers came up with an elemental pidgin among themselves, known to linguists as Lenguaje … Continue reading

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FabLab Japan

MITメディアラボのニール・ガーシェンフェルド教授が提唱している「ファブラボ」を日本でも立ち上げようという動きが始まっています。 そのFabLab Japanのキックオフ・イベントが、次の日曜日Make:Tokyo Meeting 05で開催されます。 Kick Off Event「FabLab Japanって何?」 2010年5月23日 ( 日 ) 15:00 ~ @MTM05 体育館中央付近「 多摩美ハッカースペース」ブース MTMに行かれる方は是非立ち寄ってみて下さい。これは楽しみ! その他、FabLab Japanに関する情報は下記から。 Twitter: @FabLabJapan http://fablabjapan.org/

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「コンヴィヴィアリティのための道具」

イヴァン・イリイチ(Ivan Illich 1926-2002)の「コンヴィヴィアリティのための道具」(1973)は、1970年代当時の産業主義を批判した重要な論考だ。私自身は、大量生産を行ってきた先進国の次の世界観、途上国の今後の世界観、それらとオープンソースハードウェア/パーソナルファブリケーションの可能性を結ぶ論考として重要性を感じている。論考が非常に難解であることから理解が間違っている可能性は残るものの、印象に残った部分をまとめてみよう。 ※「コンヴィヴィアリティのための道具」の要約はこちら(http://www.syugo.com/3rd/germinal/review/0042.html)にあります。このエントリを書く上でも参考にさせて頂きました。 – コンヴィヴィアリティとは 少し長いが、まずはコンヴィヴィアルという概念について。 人々は物を手に入れる必要があるだけではない。彼らは何よりも、暮らしを可能にしてくれる物を作り出す自由、それに自分の好みにしたがって形を与える自由、他人をかまったりせわしたりするのにそれを用いる自由を必要とするのだ。富める国々の囚人はしばしば、彼らの家族よりも多くの品物やサービスが利用できるが、品物がどのように作られるかということに発言権をもたないし、その品物をどうするかということも決められない。彼らの刑罰は、私のいわゆる自立共生(コンヴィヴィアリティ)を剥奪されていることに存する。彼らは単なる消費者の地位に降格されているのだ。 産業主義的な生産性の正反対を明示するのに、私は自立共生(コンヴィヴィアリティ)という用語を選ぶ。私はその言葉に、各人のあいだの自立的で創造的な交わりと、各人の環境との同様の交わりを意味させ、またこの言葉に、他人と人工的環境によって強いられた需要への各人の条件反射づけられた反応とは対照的な意味をもたせようと思う。私は自立共生とは、人間的な相互依存のうちに実現された個的自由であり、またそのようなものとして固有の倫理的価値をなすものであると考える。私の信じるところでは、いかなる社会においても、自立共生(コンヴィヴィアリティ)が一定の水準以下に落ち込むにつれて、産業主義的生産性はどんなに増大しても、自身が社会成員間に生みだす欲求を有効にみたすことができなくなる。 コンヴィヴィアリティとは、人と人、あるいは人と環境と交わる際の「相互依存のうちに実現された個的自由」を指している。そして、論考のタイトルにある道具とは、いわゆる手に取れるハンマーのようなものだけでなく、機械や生産設備、義務教育等、「合理的に考案された工夫すべて」を指している。ここでの道具は、広義の「デザイン」という言葉に近い。そしてこの論考では、コンヴィヴィアルな社会の実現に向け、道具の効率性(=合理的に考案された工夫)に対して課せられるべき限界を明らにし、人々が創造的に生きることが可能な道具のあり方の探索が行われいる。 – 産業化の弊害 人々は生まれながらにして、治療したり、慰めたり、移動したり、学んだり、自分の家を建てたり、死者を葬ったりする能力をもっている。この能力のおのおのが、それぞれひとつの必要(ニーズ)をみたすようにできているのだ。人々が商品には最小限頼るだけで、主として自分でできることに頼るかぎり、そういう必要(ニーズ)をみたすための手段はあり余るほどある。こういう諸活動は、交換価値を与えられたことはかつてなかったけれど、使用価値をもっている。人間が自由にそういう活動をすることは、労働とはみなされない。 産業化が進むにつれて、交換価値をもつ諸活動は専門性を高め制度化され、交換価値を持つものだけが「労働」とされた。その結果、例えば医療では、医師という専門職により医療手段が独占された。さらに、医師の訓練期間が長期化することにより、医療サービスの希少性が高まり社会成員の医師への依存、という構造ができあがる(以前は、呪医、民間医が効果的な処置を行っていた)。進歩は依存の増大ではなく、自己管理能力の増大を意味するはずであるのに、医療の対象拡大と公に保証された品質への過剰信頼から、人が本来持っているはずの治療者となる能力は不能化する。さらに、自分の体にも関わらず主体性を失い、人々がその管理に関して無関心・無責任となり、全面的に医師任せの思考停止した状態、文化的医原病が発生する。 このような問題は医療に限ったことではない。冒頭のコンヴィヴィアリティに関する引用にあるとおり、「富める国々の囚人はしばしば、彼らの家族よりも多くの品物やサービスが利用できるが、品物がどのように作られるかということに発言権をもたない」、自らの必要性に従ってものをつくり、生活環境に主体的に関わるということは希薄化してしまった。生活を良くするということはどれだけよい商品を購入し所有するかということとほとんど等価で、「何を買うか」が重要な関心事なのだ。医原病のような無関心にくらべれば、現在では生産に関する消費者意識は高まっているが、生産者と消費者という構図は根強く、生活のために「ものを作る能力」が活用される場面は非常に限定的であるし、生活は「生産者」によって限界づけられている。 – 誰でも生産者の時代? とは言え、それではみんな生産者になればよいのかというと、そうではないはずだ。生産の自由が極大化した社会に関しては、「誰もが生産者になれる訳ではなく大きな格差を生む、あるいは生産してよいものに関する倫理的な問題を孕む」という話もある(「広告」2010年4月号 特集「生産する生活者」)。私自身も自分でものを作る経験はまだまだ乏しく、自分の生活に必要なものを全てを作ろうとも考えていない。誰もが生産者になる、必要なものを全て自分で作るということは理想的である一方で、理想でしかないとも言える。考えなければならないのは、現在の「生産者」任せの依存した限界的な状況を改善するということで、これは、現在の大量生産型の閉じられた生産様式だけでなく、開かれた複数の生産様式を持つことが鍵と成り得るということだ。 イリイチは、コンヴィヴィアルな社会の実現に向けた指針の1つに「科学の非神話化(=身体から外在化し権威を持った知への思考停止の回避)」を掲げている。「世界についての情報は、有機体が世界との相互交渉を通じて、有機体のなかにつくりだされるものだ」とし、自ら学ぶという行為を取り戻す必要性を説いている。 人々は自分が教えこまれたことは知っているが、自分のすることからはほとんど学ばない。 「自分でつくる」ということは自ら学ぶ機会で、出来たものにオリジナリティが無いとしても、ものの裏側の技術の理解や、創意の過程を追体験する重要なプロセスでもある。オープンソースハードウェアは個人やコミュニティがアクセス可能な技術を提供し、生活から隔離され隠蔽された技術を再び日常へと取り戻す、開かれた学びの機会である。こうした機会は先進国でも途上国でも重要な意味を持つ。先進国ではものを作るということへの無関心を改め現在の消費と生産を連続させ可能性として、途上国ではものを生みだす機会として。(もちろん、オープンソースハードウェアやパーソナルファブリケーションにはこの他にも様々な可能性が見いだせる) – tinkering オープンソースハードウェアのArduinoには哲学があり、その流儀のひとつにtinkeringがある。 tinkeringとは、あなたが好奇心、空想、奇想に導かれて、やり方の分からない事柄に挑戦することです。tinkeringに説明書はありません。正しいやり方や間違ったやり方はなく、失敗もありません。それは、物の仕組みを理解することと手を加えて作り直すことに関係しています。複数の機械、珍しい仕掛け、不揃いな物体が調和しながら機能することがtinkeringの真髄であり、その基本は遊びと調べごとを結びつけるプロセスといえます。–www.exploratorium.edu/tinkering (「Arduinoをはじめよう」より) tinkeringこそが自ら学ぶということに他ならない。

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Design for Disassembly

先日、Make:japanで紹介されていたDesign for Disassemblyに関する記事はデザイン、オープンソース、サスティナビリティを考える上で示唆的だった。 これまでもプロダクト・デザイナーは、1つの製品の拡張性や製品ライフサイクルのことを当然考えてデザインをしてきている。しかし、これらの要件はどちらかというと、審美的な側面からいえば邪魔ものでコンセプトモデルでは美しかったデザインが、これらの要件を満たそうとして審美的な価値を失ってしまったり、造形としての美しさを優先させて、ユーザーにはバッテリー交換を出来ないようなデザインになってしまうこともある。 造形としての美しさとオープンな構造というのはなかなか両立しないのだろうか…。本質的には、このあたりのことを追う必要がありそうだが、最近の傾向としては、オープンな構造の方が価値として重要視され始めているように思う。これは、環境面だけの話ではなく、消費?のあり方の問題として。今日は、そんなことを考え始めるための事例をいくつかあげてみようと思う。 ●Design for Dissassembly 10秒で簡単に分解できるデンタル・フロスの容器の例 「分解できるデザイン」(Design fo Disassembly: DfD)は、将来、修理や改造やリサイクルができるように分解しやすく作るというデザイン手法だ。 DfDの利点は、 分解しやすさは製造しやすく製造に関するコストを低減する。それから、素材を減らしていくことにつながるので原料のコスト面でも有利に働く。また、このような企業の考え方が広まれば、環境意識が高い層の評価が高まり、新しいマーケットを創りだすことができる、とのことだ。それから、修理可能なパーツの販売も推奨されている。もちろん、危険が伴なうものは分解できないようにする必要があるが、特に作るプロセスや製品そのものが危険を伴わないものは、半完成品で提供してもよいと思う。完成品は完成品で良いが、「自分で作る」というプロセスや時間にもっと価値を感じられるようなものもあるはずだ。 ● Open Structures こちらもMake:経由で知ったプロジェクトで、 製品の開発者や建築家に、たとえば流しや自転車などの部品を使って別の製品が作れるような、ハック可能な製品を作ってもらうための基準をまとめたものだ。このシステムの基本は4×4センチの方眼。あらゆる部品をこの規格に合わせて作ることになる。(中略)このシステムの核心は、製品を簡単に分解できて、簡単に再構築できるようにするという提案にある。 このプロジェクトがユニークなのは、「グリッド」=細胞、「パーツ」=組織(細胞のあつまり)、「コンポーネント」=心臓などの器官(組織のあつまり)、「ストラクチャー」=消化器官システムとして、階層化してデータベースを作ろうとしているところだ(該当ページへのリンク)。 すべてフラットなマテリアルではないために、用途に応じて必要なものを探し、「コンポーネント」の組み合わせでものを作ったり、「パーツ」レベルからものを作ることを可能にしている。 いわゆるメーカーの既製品でも、DfDやオープンな構造が採用されていれば、製品は単純に消費されるだけ、つまり予め規定された操作体系にしたがって操作するだけという、部分的で限定的な関与だけでなく、より能動的な製品への関わりを生み出すことができるのではないだろうか。 ●look “hack-able” こちらは、ちょっと前のAdaptive Path社のプロジェクトで、インドの農村部でのフィールドワークからモバイルデバイスがどうあるべきか、というデザインコンセプトを導いたものだ。インドに限らず、アジアの途上国では携帯電話の(合法なものも非合法なものも)改造、修理の強烈な文化があるという[1]。この市場では、”hack-able”なデザインが重要で、視覚デザインのヒントをスチームパンクから採用し、カスタマイズがしやすいように見えるデザインを提案している。視覚デザインとしてこのようなデザインが効果的ななのかどうかはおいておくとして、途上国には分解可能であることや、修理可能であることは先進国とは少し異なる側面で大切な要件でありそうだ。 このようにいくつかの事例をみると、インタラクションデザイナーも画面のなかだけでなく、プロダクトデザイナーと協調し、ものとして製品ライフサイクル全体を視野にいれた、製品の扱い方をデザイン領域として捉えれば、製品とユーザーの新しい関係を構築し、新しいイノベーションに寄与する機会が増えそうだ。 [1]http://www.janchipchase.com/repaircultures

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インタラクションに使えそうな?マテリアル10

最近、気になる10のマテリアル。いままでとは違う、インタラクションを思いつくかも? 1.エアロゲル 非常に低密度の固体で、さまざまな驚異的な特性を持ち、とりわけ眼をみはる断熱性を持つ。半透明な外見から「凍った煙」や「固体の煙」などの異名を持つ。90 – 99.8 %の空気で構成され、密度は1.9 – 150 mg/cm3である。触ると発泡スチロールのような感触がある。 出典:wikipedia – 2.スチールベルクロ スチール製のベルクロ。ループとフックを除いたテープ部分の厚さは0.2mm。1平方メートルで7トンの垂直荷重に耐えるそうだ。 出典:newscientist – 3.導電糸 電気を通す導電性の糸。Lilypadを使った作品制作に欠かせない。様々な用途で使用可能で、下の写真のように使うとベルクロをスイッチのように使うこともできる。 導電性のインクで書けるペンや、接着剤、紙、ゴム等もある。(詳しくは、KOBAKANTで) 出典:http://www.fashioningtech.com/ http://www.kobakant.at/ – 4.サーモクロミック 温度によって色が変化する。家具、ファブリック、インクなどいろいろある。クロミズム (chromism) は物質の光物性(色・蛍光など)が外部からの刺激によって可逆的に変化する現象をさす。クロミズムを示す物質のことをクロミック物質(あるいはクロミック材料、chromic Material)という。クロミズムには、サーモクロミズムの他に、フォトクロミズム、エレクトロクロミズムなどがある。 出典:wikipedia 参考:http://mocoloco.com/ http://www.tea-off.com/ – 5.フレンドリープラスチック 65度以上になると柔らかくなるプラスチック。室温で堅くなる。ちょっとしたものを作るのに便利。 色々な色がある。型をとり複製を作るというようなこともできる。おゆまるが安価で手に入りやすい。 出展:http://www.kobakant.at/ – 6.Photonic textiles IFAでPhilipsによって発表された、フォトニックテキスタイル。生地に柔軟性のあるマルチカラーLEDが埋め込まれている。使ってみたいが手に入らない。 出展:http://www.gizmag.com/ – … Continue reading

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Radical Atoms

先日エントリーした、CraytronicsやOrganic User Interfaceに引き続き、今回は関連するMIT Tangible Media GroupのRadical Atomsについてまとめてみようと思う。 Radical Atomsとは Radical Atomsとは、石井裕氏らによって2009年4月のCHIで発表された、ダイナミックに変化するマテリアルとのインタラクションに関するビジョンである。発表資料によると、ダイナミックに変化するマテリアルとは、構造上の制約に従い、構造や振る舞いを変化させることで、新しい機能を知らせることができるものである(Conform to structural constraints, Transform structure & behavior, and  Inform new abilities. )という。 これまでTangible Media Groupで研究されてきたTangible Bitsでは、ビットの世界はプログラム可能で柔軟だったが、アトムの世界は静的なままだった。Radical Atomsが目指すのは、ビットだけでなくアトムの世界を柔軟にプログラム可能にしようというものだ。これまでのインターフェイスは、奥に控えるコンピュータとの対話を円滑に、あるいは自然に行うことを目指していたのに対し、コンピュータの存在感はもっと希薄になり、物自体がインターフェイスでもあり、コンピューティング機能も持っている、そんなインタラクションが目指されているようだ。 speak cup Tangible Media Groupによるspeak cupという作品は、このような形状が変わるインタラクションを簡易的に実現したもので、その制作から得られた洞察をまとめた研究資料(pdf)が公開されている。speak cupは円盤状のシリコンで外装された単機能のボイスレコーダーで、この円盤は器のように凹面に形状を変更すると録音が開始し、反対の凸面にすると再生が始まる。 凹面はお皿に似ていて、「物がたまる」という類推から、造形と機能の対応づけは行いやすい。一方で、造形を活用していくのであれば、一見して機能や使い方が分かると良いが、この事例では、まだ造形から機能を知ることは難しいと言わざるを得ない。例えば、ハサミの形をしていれば用途がすぐわかるように直接的な形の類似性があれば有効である一方、そもそも形から機能を想起しにくいもの、例えばビデオ編集機のようなものなどには、いろいろな課題がありそうであることがうかがえる。speak cupの研究資料は、以下のように締めくくられている。 「ダイナミックに変化するマテリアルとのインタラクションにおいて、より複雑なインタラクションをデザインする方法は、まだ知られていない。この方法を理解することは、今後数十年、ヒューマンコンピュータインタラクションの領域が挑戦すべき大きな課題となるだろう。(It seems that … Continue reading

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カタチの変化

コンピュータがどんどん小さくなって来ているのは周知のとおりだ。今後は砂のように小さなコンピュータやロボットを作ることが可能になり、この非常に小さな粒子を大量に制御することで、「粘土のようにカタチが変化するモノ」を作ることが可能になると考えられている。 Craytronics このようなナノスケールの大量の粒子により形状が変化するモノは、プログラマブル・マター(Programmable matter)、あるいはクレイトロニクス(Craytronics)という名前で知られている。「プログラマブル・マター」という言葉は90年代前半、セル・オートマトンのような自己複製装置の意味で使われていたそうだが、90年代後半、半導体技術の進化により物理的な特性をプログラムできる可能性が見え始め、現在使われているような意味=「物理的特性をプログラム可能な大量のもの(any bulk substance which can be programmed to change its physical properties)」へと移り変わったという。2002年にはプログラマブル・マターを実現させるためのソフトウェアとハードウェアの調査プロジェクト、クレイトロニクスプロジェクトがカーネギーメロン大学で始まっている。 プログラマブル・マターやクレイトロニクスの具体的なイメージはこの映像を見て頂きたい。 カーネギーメロン大学のその他の映像 Organic User Interface インターフェイスの領域でも、「カタチが変化するということ」をテーマとした研究が行われている。今回はこのオーガニック・ユーザインターフェイスを紹介し、次回はMIT Tangible Media groupのRadical Atomsを紹介しようと思う。 オーガニック・ユーザーインターフェイスは、以下のように定義されている。 「オーガニックユーザーインターフェイス(OUI)とは、物理的な入力によって変化する、平面ではない表示装置をもっているユーザーインターフェイスである。OUIは、いかなる形にも変化可能な、出力装置であると同時に入力装置としても使えるディスプレイによって特徴づけられる。(An organic user interface (OUI) is a user interface “with non-planar displays that actively … Continue reading

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エクスペリエンスデザインを見直す

「エクスペリエンスデザイン」という言葉はもう少し見直されても良いのではないか。 もうずいぶん前から、「ユーザーの経験をデザインする」ということが言われていたが、言葉から思い描くイメージと、実際のアウトプット=デザインされたものの間に、どうもギャップがあるような気がしてならなかった。このギャップの他にも、「金のなる木」になりそうなテーマというだけで、あまり「エクスペリエンスデザイン」が指し示すことが本質的ではない、あるいは茫漠としているように感じることが多かったようにも思う。インタラクションデザイナーやIAで、「エクスペリエンスデザイン」とか、「ユーザー経験のデザイン」という言葉をなるべく使わずにいた人も多いのではないだろうか… 自社が提供する製品を単体ではなく、製品同士が連携するシステムとして機能させることや、すべての顧客接点を調和した1つのシステムとして考える、「体験戦略(experience strategy)」という考え方もあるようだ。これはこれで、企業にとって重要な施策の1つだとは思うが、ブランドのなかに古くから存在する考え方に「体験」という響きの良い言葉をあてているだけなのではないかとも思えてしまう。製品連携についてもこれまでもずっと考えられてきているし、この連携から得られるものを「体験」とするのは、分かるような気もするが、やはり多少の違和感が残る。 最近、この言葉を見直し始めたのは、以前に紹介したBill Buxtonの「Sketching User Experience」で「経験をデザインする」ということが、わかりやすく説明されていたからだ。「Sketching User Experience」のなかで「経験をデザインする」ということが、彼の「オレンジジューサー」を使う具体的な経験からこのように説明されている。 彼は毎朝、ジューサーでオレンジを絞り、オレンジジュースを飲んでいるそうだが、手動のジューサーと電動のジューサーでは、ジュースの味も変わらないし、機能も変わらないが、経験は全くちがうと説明している。電動のジューサーを使うと、静かな朝が一変しオレンジを絞る騒音で神経が逆撫でられるようになったと…。また、手動のジューサーでも、オレンジを絞る機構の違いによって、その作業の趣が違ってくるともいう。   ハンドル操作でギヤが回転し、徐々に時間をかけてオレンジが絞られて行くタイプ(上の写真の銀色のもの)と、テコの原理を使って一気に絞るタイプ(上の写真の白のもの)では、一気に絞るタイプの操作はリズミカルで気持ちのよい操作になるという。(恐らく、オレンジが一気にスポッと潰れるのが気持ちよいのではないかと思う。オレンジの香りの広がり方も変わってくると思うし。) この例がしっくり来るのは、PCのディスプレイのなかの話ではなく、毎日の生活のなかで使われる道具を筋肉と五感を使って操作しているからだと思う。確かに、フィジカルコンピューティングやタンジブルインターフェイスという文脈であれば、「エクスペリエンスデザイン」という言葉への違和感はそれほど強くない。むしろ、「エクスペリエンスデザイン」の本質を、機能や目的が同じ時、機構や実現方法によって人が受ける感覚や印象が変わる、その差分のようなものと捉えることの面白さに惹かれる。(その差分を追いかけてみたくなるというか…) 機能や目的が同じでも実現する機構が異なることによって、ユーザー経験が変わるということは示唆に飛んでいる。1つはデザインをしていく上でエンジニアリングが重要な要素となること、もう1つは、様々な機構の可能性を探り筋肉や五感を使って実際に経験できる方法が必要であるということ。「経験をデザイン」するのであれば、視覚的な表象だけでなく、経験可能なモノが必要で、それこそがハードウェアスケッチなのだろう。ハードウェアスケッチによって実際に経験することだけが、「感覚や印象の差分」を明らかにしてくれるのだ。 「エクスペリエンスデザイン」を、もう一度見直すことで 、ハードウェアスケッチで何をすべきなのかが透けて見えたように思う…

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